わが社の街 横浜 歴史探訪 そにょ2 ヘボン博士邸跡

ヘボン邸碑.jpgわが社の街、横浜の知られざる歴史について語るブログ、その第2弾、今回はこの横浜に深い足跡を残された、ヘボン先生をご紹介したいと思います。

横浜高速鉄道みなとみらい線、元町・中華街駅から山下埠頭方面に歩いてすぐ、横浜市地方合同庁舎の敷地内に「ヘボン博士邸跡」と銘記された碑が建てられています。この周辺は中華街と共に、幕末の開港時から明治にかけて外国人居留地であったことは周知の通りです。
医学博士であり、米国プロテスタント系宣教師でもあった、ヘボン先生こと、ジェームス・カーチス・ヘボン博士は、以前から海外伝道に深い関心を持っており、1859年の日米修好通商条約締結を機に、同じ志を持つ奥様のクララさんと共に来日されましたが、当時の日本はいまだ禁教の真っただ中であり直接的な布教活動は許されなかったため、医療または教育の分野で活動を始められたのです。

まず医療では現在の横浜市神奈川区にある宗興寺に施療所を設けて、その後幕府からの突然の施療所閉鎖の命令が出るまでのたった5か月の間に、一般市民を中心に約3500人の患者を診察したとの記録が残っています。またこの同時期に、たまたま施療所の近くで起きた歴史上の事件である、いわゆる「生麦事件」~これは薩摩藩の大名行列に、事情が分からず騎乗のまま乱入してしまったイギリス人数名が薩摩藩士によって無礼打ちされたという事件ですが、この時負傷したイギリス人の治療に急遽あたった医師がヘボン先生だったと言われています。

その後ヘボン夫妻は横浜居留地に転居され、施療所を再設置すると共に本格的な教育の場を提供するため「ヘボン塾」を誕生させます。往年の鎖国下における日本にとって、西洋の知識と技術は「蘭学」によってのみもたらされていましたが、黒船来航以降、世界のトレンドは産業革命を成功させたイギリスやアメリカなどに大きく舵が切られていることを今更ながらに知った日本は、それを効率良く学ぶことに最適な「英語」を習得することが急務だとし、幕府は優秀な生徒を選んで継続的にヘボン塾へ派遣することにしました。そこで学んだ塾生には、後に維新の十傑に数えられ、日本陸軍の創始者と呼ばれることになる村田蔵六(のちの大村益次郎)、また後の昭和恐慌の鎮静化に成功するなど、その財政手腕に対する評価が高く、日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任することになる高橋是清などがおり、それ以外でも数多くの偉人を輩出しました。
尚、このヘボン塾は後の明治学院大学となり、女子教育に特化すべく独立したものが後のフェリス女学院へと発展していくことになります。

このようにヘボン先生は日本人に対して高等教育を施すと共に、自身は日本初の本格的和英辞書「和英語林集成」を出版、これを伝道の原点である聖書の和訳に活用、またこの辞書を編纂するために考案された「ヘボン式ローマ字表記法」は現在の日本人が認知しているローマ字のほぼ原形となっているところから見ても、ヘボン先生が如何にその後の日本の政治、文化、教育等の各分野に多大な影響、貢献をしたかが見て取れます。私が最初から愛称かのように「ヘボン先生」と表記していたのは、医師であることもありますが、まさに近代日本の「先生」だったんだなあと感じたからです。

ところでこのヘボン先生、お名前を英語表記しますと、James Curtis Hepburnとなります。
ん?何かお気づきになりませんか? そうです。ヘボン先生、実はヘップバーン先生とお読みするのが本来だったのです。これは来日したヘボン先生が、日本人が発音しやすいようにと、日本語で名を名乗る時、みずから「ヘボンでござります」とおっしゃっていたそうです。まさにローマ字的発音であり、ヘボン先生ならではのエピソードだと思います。
現代の日本人からしてヘップバーンと言えば、かの英国女優、オードリー・ヘップバーンが真っ先に思い浮かぶわけですが、歴史の歯車が少しずれていたならば、現代の我々は「ヘップバーン式ローマ字」とか「ローマの休日 オードリー・ヘボン」という覚え方をすることになっていたかも知れません。オードリー・ヘボン・・・なにか締まりませんね(笑)

第2G T.H

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